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03-21 00:24 ◆伊勢白山道
検索対象: ◇◆伊勢白山道 老子 樸 原木
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人間は純朴さが大切[2012-10-19 11:05:50 | 伊勢白山道]
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└記事:2012-10-19 [書]
老子の言葉 第二十八章
(独自の超訳)
男性的な強さを持った上で、女性的な母性の心を保つことが出来ますと、
その人は社会の成功者と成ることが出来ます。
社会的な成功者と成れば、常に社会貢献を重ねる徳積みを行い、その人は赤子のような純粋性をだんだんと取り戻します。
表面的な他人から見える生活を知られるだけではなく、隠れた私生活でも道徳を守っていれば、その人は社会の模範と成ります。
社会的な模範の人と成れば、さらに徳の有る生活を行い、善悪も白黒も無い中立的な悟りの心境に帰ることが出来ます。
大成功した生活を知った上でも、底辺の時の生活も忘れなければ、その人は真の成功者と成れます。
真の成功者となれば、常に徳(良心)の有る心で満たされて、大自然から出る
原木のように純朴な人間に成ります。
要は、人間が成功を真に極めて至る最後の姿は、
原木のような純朴な人間なのです。
従って、初めから純朴な人間が居れば、その人は社会に役立つ器と成れるでしょう。
もし聖人が純朴な人々を使うならば、組織の責任者に登用します。
そうすれば、社会は丸く収まります。
原文
「知其雄、守其雌、爲天下谿。
爲天下谿、常徳不離、復歸於嬰兒。
知其白、守其黒、爲天下式。
爲天下式、常徳不忒、復歸於無極。
知其榮、守其辱、爲天下谷。
爲天下谷、常徳乃足、復歸於
樸。
樸散、則爲器。聖人用之、則爲官長。
故大制不割。」
(感想)
人間が懸命に頑張って働いて、しかも更にその中でも本当に社会的に大成功した人間が至る姿とは、
赤子のような、大自然から出る
原木のような、純朴な人間であると
老子が言っています。
社会的な成功を他人に自慢しているようでは、まだまだ小さい成功者に過ぎないのです。
成功する人間、成功出来る人間とは、
(1)強さの中にも、女性的な母性を持つ人間が成功します。
男性でもオバチャンのような世話焼きで、配慮が出来る経営者がいますね。
(2)
老子は、人間は成功が始まり出して生活に余裕が出来始めれば、徳を積みなさいと言っています。
小さな陰の社会貢献でも良いし、身近なボランティアでも良いのです。
要するに成功するには、徳=善行というエナジーの貯金が必要なのです。
コノ世は、「原因」が有って「結果」が生じる法則が貫徹する世界なのです。
だから成功したければ、成功するための原因=努力すること・善行の蓄積が必要なのです。
原因を自分で創らずに、祈ってばかりいても全然ダメなのです。
(3)逆に言えば、貧乏であろうが無力であろうが、ニートであろうが、その人が本当に真に純朴な人間であるならば、人生を懸けて大成功した人間と同じなのです。
人生で大いなる一周をして「原点」に戻って来る人間と、純朴さゆえに初めから「原点」に留まる人間のような関係です。
もし自分の子供が勉強が出来なくても、とても素直で純朴であれば、親はその子供の純朴さが消えないような育て方が大切です。
なにせ本当の社会的な成功者が最後に至る姿を、最初から維持していることは人間としての真の財産なのです。
人間は、どんなに金持ちであっても、最期の最後は「たった一人で」「財産を置いて裸で」アノ世に帰って行くことが確定しています。誰もこれを避けることが出来ません。
このことからしましても、上記のようなことは
老子の理想論に聞こえるかも知れませんが、真実だと感じます。
今からでも、自分の純朴さを思い出しましょう。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
何事にも原木=原因が存在しています[2012-10-25 11:21:21 | 伊勢白山道]
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└記事:2012-10-25 [書]
老子の言葉 第三十二章
(独自の超訳)
道=真理とは、どの時代でもそれを名付けることが出来ません。
真理とは、まるで切り出した小さな
原木のようなものなのです。
しかし天下が広いと言いましても、真理の
原木を上手に使いこなせる人はいません。
もしも王様が、何にでも加工出来る
原木のような真理を身に付けることが出来れば、
まさにコノ世の万物が自ら進んで王様に従うことでしょう。
つまり、天と地が和合して豊富な農作物を国にもたらし、人民に命令しなくても自ら王様に自然と従うように成ります。
原木を切り分けて加工しますと、それぞれが名前を持つ色んな道具に変わります。
個別の道具が生まれれば、その道具から更に別の名前を持つ物が生まれ出ます。
もうこの時点では、最初の「
原木の姿」=真理が分からなく成ってしまっています。
だから人間が真理(道)を知ることが難しいのは、加工されて名前が付けられたモノばかりを見るからです。
キレイに加工された木製品から、元の
原木の姿を見ることが難しいのと同じなのです。
この理屈を人間が理解しますと、その人は人生を安全に迷うこと無く歩くことが出来るでしょう。
このような真理(道)の姿をコノ世の大自然の姿で表現しますと、
川の流れや谷川の水が大河を経て海と繋がっているように、
「すべてが繋がっている」のが真理なのです。
原文
「道常無名。
樸雖小。天下莫能臣也。
候王若能守之。萬物將自賓。
天地相合以降甘露。民莫之令而自均。
始制有名。名亦既有。夫亦將知止。知止所以不殆。
譬道之在天下。猶川谷之於江海。」
(感想)
この章を訳すには、霊的な世界や真理についての「体験」を持たない人間には難しいでしょう。文法に従って解釈すれば、奇妙で奇天烈な誤訳になります。
この真理についての
老子の言葉ほど、コノ世の実相を表現したものを他に見ません。
例えれば、仏教の御経が良い例です。
釈尊の死後に数百年も経過してから編集されたインドの言葉での経典を、その意味よりも「発音」を中国語などに何回も何回も変換に変換を重ねて御経は出来上がっています。
老子が言う、
原木を加工して色んな道具を造るようにです。それを日本では釈尊の言葉だと思い込んで信じています。
御経から釈尊の本当の思いをたどるのは、至難なことでしょう。
もし、釈尊が現代に生き返れば、日本で広まる御経を聞いても意味が分からないでしょう。
このようにして、本当の真理というものは、隠れてしまうのです。このことを
老子が最初に指摘しています。
私たち人間は、色んなことで悩みます。
私たちは、目の前の「その悩み」だけを見て悩んでいます。
しかし、加工されて出現した「その悩み」にも、原因となる元の
原木が誰にでも必ず有るのです。
だから目の前の悩みを解決する、自分が納得するためには、悩みの元の
原木を見よう・探そうとする視点を持つことが人間には大切なのです。
目の前の悩みだけを見て悩んでいますと、悩みの元の
原木がそのままなので、再び必ず同じような悩みがリピート再生をするのです。
その悩みの
原木(原因)は何か?を見る視点を持ちましょう。
このような視点を持った人間は、人生を安全に渡ることが出来ると
老子が言っています。
そして最後に
老子は、コノ世のすべてが連動している、繋がっていることが真理の姿だと言います。
川の流れを見ただけで、見たこともない海の姿を想像できますか?
逆に海を見て、それに繋がる細かい川の存在を思いやって想像することが出来るでしょうか?
人間が生きるとは、このように色んな繋がりを想像することも大切なのです。
これが出来るためには、人間は「思いやり」「愛情」「感謝の気持ち」を持つことが大切なのです。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
※今日、明日と地磁気の高まりを感じます。防災意識を持って、自分の居る場所を静観して生きましょう。
過労の蓄積にも注意して、短い休息・仮眠も挟みましょう。
赤子のように任せ切る勇気[2012-11-03 11:57:43 | 伊勢白山道]
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└記事:2012-11-03 [書]
老子の言葉 第三十七章
(独自の超訳)
真理(道)というものは、流れるままの自然体であるにもかかわらず、
あらゆるモノを育んでいます。
もし王様(人々)が、真理をよく守って生活をすれば、
その人に関わる万物は、まさに自ら成長しようとするでしょう。
もし、その成長する過程において我欲を持つならば、
私は名もない
原木のような「素直さ」をもって、その我欲を鎮めることでしょう。
人間は無名で素直であれば、不要な欲を持つ必要がありません。
人々が我欲を持たずに静かに居るならば、天下社会は自ら自然と安定します。
原文
「道常無為。而無不爲。
侯王若能守之。萬物將自化。
化而欲作。吾將鎮之以無名之
樸。
無名之
樸。夫亦將無欲。不欲以靜。天下將自定。」
(感想)
自分の思い通りに行かない、成らない、と思っている人間が多いです。
そのような時は、自分に合わない不要な欲を求めてはいないのか?
と言うことを省みるのが良さそうです。
何かを無理をして成したところで、その次は「それの継続」という大きな自然の「流れ」が誰にでも待ち受けています。
多くの人間は、初めの一歩を成すことばかりを考えて、その後の「継続」が視野から欠落しています。
分かりやすく言えば、無理な結婚も同じです。
結婚がゴールとしか見えていなければ、周りの忠告も耳に入りません。
その後の継続で、初めて現実の問題と向き合うことに成ります。
会社から独立する欲望にも言えますし、進学にも言えることです。
このようなことを、正しく自分で判断するためには、
老子は「素直な視点で、それを見てみなさい」と仰っています。
そして、自分の希望を実現するためには、自分自身が真理に沿った生活を「している」ことが、
絶対条件だと
老子は言います。
では、真理とは何でしょうか?
自分がするべき努力をした上で起こる「自然な流れ」に身を任せなさいと示唆されています。
ただ自然が良いという屁理屈で、何もせずに居る人間には「自然な流れ」が発生しません。
また、自分が努力して「流れ」が発生しましても、その「流れ」に身を任せることが不安に成るのも人間です。
しかし、自分が良心からの努力をして発生した「流れ」に従えば、その後にどうなろうと自分自身は後悔をしないのです。
必ず死ぬ人間にとりましては、成功や失敗することよりも、自分の良心に従うことが最期の最後に後悔をしない秘訣なのです。
黙っていても、その人間が居れば色んな物事が成功して行く人間に成るためには、
(1) 自分の良心からの最善を尽くす努力をする生活をしている事。
(2) 素直な視線を持って、その過程を見詰める事。
(3) それで生じた自然な流れには、悩まずに素直に思い切って従う事。
このような要素が大切だと、この章からは感得されます。
人間は、「流れに任せ切る」ことが怖いものです。そのためにチャンスを逃したり、選択を間違うこともあります。
しかし、上記の3つを知っているだけでも、参考に成ることでしょう。
赤子は大人に任せ切って、その身をゆだねています。
大人に成って自我が増すにつれて、これが出来なくなるのです。
もし、努力をした上で、赤子のように流れに任せ切ることを身に付けた人間は、人生で得る物が多いことでしょう。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
素直な風は最高です[2013-10-27 10:21:45 | 伊勢白山道]
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└記事:2013-10-27 [書]
老子は2500年も前に、理想的な人間を「
樸」(ボク)=
原木、とよく表現しています。(
http://goo.gl/Q09b9Q )
「
樸」を辞書で引きますと、
1. ぼく【
樸】[漢字項目] (大辞泉より)
[音]ボク(呉)。 ありのままで飾り気がない。「
樸直/簡
樸・質
樸・淳
樸(じゅんぼく)・純
樸・素
樸」◆ 「朴」と通用する。原義は、切り出したままの木。[難読]
樸樹(むくのき)
2. ぼく‐じつ【朴実/
樸実】
[名・形動]飾り気がなく律気であること。また、そのさま。「~な人となり」
3. ぼく‐ちょく【朴直/
樸直】
[名・形動]かざりけがなく正直なこと。すなおで素朴なこと。また、そのさま。「~な青年」
現代でも男性は自分のことを「ボク」と自称します。幼女も、兄弟の物まねをして「ボク」と言い、親が困るときもあります、笑。
大自然の
原木は、その語源は「原
樸」ともいえそうです。
切り出した
原木とは、風通しの悪い場所に置いて置きますと、他の
原木と接着する部分や、地面に接地する部分から腐り出します。
人間も、部屋に閉じこもっていたり、親子の間にも適度な風通しが無ければ、心が病み出すかも知れません。
気分転換のような風通しを持つことで、
原木同士も親子同士も半永久的に健全さを保ちます。
伊勢神宮に参拝しますと良く感じることなのですが、神様とは本当に心地良い「風」(神気)なのです。
皇女・倭姫(ヤマトヒメ)が初めて伊勢の地に来られた時、
「是神風伊勢國~」=この神の風が吹く伊勢の国~、と歌を詠まれたように神様=風と表現されています。
静電気に触れますと、フワフワと皮膚に触れるものを誰もが感じますが、伊勢の風はこのフワフワが風となって実際に吹いています。
他人との間に、心地良い風を通すことが長い交友の秘訣とも言えそうです。
ベッタリ接着=仲良し、では無いのです。気持ち良い風が間に流れていなければ、どんな仲も腐り出します。
男女や夫婦の間にも、新鮮な風を「意識する」ことが大切です。
では、その風とは何か?と言いますと、それを捜すのが人生です。
大切なことは、どんな人間関係、どんなコノ世の物事にも、「執着の無い」風を意識することだと思います。
原木は、加工すれば家でも家具でも何にでも成ります。変身できるのです。
ただし、素直では無いアテた木(異常に頑固な木・年輪が曲がった木・クセのある木)は、どんなに加工しましても、曲がったり、割れたりします。使うのが難しいのです。
だから、人間も、
* 執着の無い風を意識していれば、
* 素直さを意識していれば、
死後も必ず成仏して天国に行けます。コノ世のすべての細事は関係無くなるのです。
今日も、この2点を意識して生活を楽しみましょう。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
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